この強い熱と日差しで
057:真夏の太陽の光が全てを焼き尽くしてくれれば
季節の変わり目にはあれほどざわざわ鳴っていた喬木や灌木はどっしりと動かない。代わりに蝉やら何やらわからぬ虫がしきりに鳴き喚いた。食するほど蝉は好きだが種類は知らぬ。せいぜいが油蝉とミンミン蝉が、という程度である。つくつくほーしとか鳴くのはなんだっけ、と想いを馳せながら卜部は濡れ縁へ溶けるように寝そべった。情勢が落ち着いてきたから卜部もこうして他人の家で涼むことができる。冷房はないが風通しの良いこの家では暑さを扇風機でしのぐ。案外それで過ごせるのだから不思議なものだと思う。季節の変わり目や真夏真冬の強い暑さ寒さに負けがちな体の卜部に冷房や暖房は案外毒だ。上官である藤堂の家に間借りして湯治ならぬ泊りがけで体を休めている。藤堂の方も家事を分担する条件で泊めてくれたし、一度決まれば覆さぬ性質であるから毎年のように繰り返した。知り合ってからまだ年数もたっていないが熟年夫婦のようにある程度お互いのことは暗黙の了解で済ませている。
藤堂が花を生けるために鋏を入れる音がする。我流だと笑いながら教えてくれた藤堂の指や腕のさばきはまとった着物と噛みあって一つの像を形成していた。それは犯しがたく完成されていてそれゆえに脆く崩れる危険性もある。完成された美は崩壊を呼ぶから建物を立てる際などには柱の飾りを一つ上下や左右をさかさまにつけるのだとか。完成されない美もあるということだろう。藤堂もそれは知っていてだからこそ時折、凛とした空気がふわりと微笑む。無理強いはしないし食事は出るし願ったりかなったりだ。卜部は藤堂の好意をいいことに調子に乗っていることにも気付いている。戦闘から離れた軍人ほど暇なものはない、と思う。外交関係で戦闘計画はしばらくないとの話だった。だから卜部は藤堂の私邸へ居候している。藤堂の真似をして花を生けたり書庫へこもって読書に耽る。
最近の気に入りは濡れ縁だ。射すように強い日差しの幕を見ながら時折滑るように頬を撫でる風が汗を冷やす。書庫から持ち出した本の湿った臭いと日向の匂いは別個でありながら混じり合う。そこに卜部が介在するのだ。濡れ縁で胡坐をかいて物憂げに本のページを繰る。それが卜部の日常になりつつあった。
「巧雪」
仰々しく間違えようもなくまた読みようもない名前を正確な発音で奏でるのは藤堂一人だ。卜部が顔だけ向けると涼しげな硝子の器を二つ持った藤堂が食膳を用意しているところだった。
「今日は暑いだろう。あまり日に当たるのはよくない。切りあげなさい。食事が出来た、冷汁にしてしまったが構わなかったか?」
戦闘が始まれば食事はおろか寝床さえ粗悪な環境になる。真っ当な料理は用意してもらえるだけありがたい。
「…蝉が喰いてェ」
「…あれは常備食ではないと何度言ったらわかる。だいたい蝉ばかり食べていても精がつかん」
暑さ負けをよく起こす卜部を見据えての一言である。一般的ではない食事風景を展開させる卜部の中で蝉は通常食の領域がだ藤堂にとっては違う。卜部は機会があれば蝉や蜻蛉を勧めるが居合わせた四聖剣か藤堂に必ず止められる。その理由は卜部にはどうしても納得がゆかない。美味いものは美味いと思う。
「…朝比奈の醤油漬けよりましじゃねェですか」
「どっちも変わらん。そもそもお前こそ惣菜に楓蜜をかけるとは…改変にもほどがある」
そのうえで蝉が喰いたいである。食事を提供する側としてはこれ以上作りがいがない食客もいないだろう。卜部もそれは自覚しているから楓蜜をかけるのは自分一人で食べる時だけにしているしむやみやたらに駆け回って蝉を取っては焼いて食ったりしない。一応相手の了承を伺う。大抵は拒否される。俺が喰うだけですよ、と言えば見ている者の気持ちになれといわれる。
いただきます、と箸を取る。藤堂の料理は美味い。軍用レーションなどは栄養補給が最重要であるから消化や味わいなど二の次である。体調を崩した時に食べるものではない。消化不良を起こして嘔吐した経験がある身として軍用レーション開発者に投げつけてやりたい気に何度もなった。藤堂の飯は美味い。自然と箸が進む。藤堂も無駄口をきかぬから食事時は静かだ。そもそも卜部も藤堂も能弁な性質ではないから二人一緒に濡れ縁に並んだとて会話があるとは必ずしも限らない。藤堂も卜部も芯はあるが受け身な性質なのだ。相手の反応を窺ってしまう癖が双方にあるから寝起きを共にしても挨拶以外会話がないことは何度もあった。それでも閨をともにする関係にまでなれたのは不思議である。
食事の時の指使いや腕の動き、肘の締まり具合は閨を思い出させる。特に藤堂は体が締まっているから筋肉の躍動や骨格の好さが目立つのだ。武道をたしなむものとして背筋は綺麗に伸びており、気負ったように肩肘張る緊張感も適度にない。気が抜けてだらけている藤堂を、そう言えば見たことはないな、と卜部は箸を咥えたまま思った。ただそれも良し悪しで、卜部が前兆として感じる頭痛や吐き気や疲労と言った兆候を全て藤堂は気合で我慢して呑みこんでしまうのだ。結果としていきなり限界を迎えて倒れる。周りが泡を食う。何度言っても藤堂の性格なのか、治らない。朝比奈が泣きついても駄目なのである。千葉は藤堂に憧れているから藤堂に意見するなど考えに含めてもいないから論外だ。仙波からも言うように含めてあるのだが藤堂は思わぬところで頑固なのだ。
そんな藤堂が意を決した覚悟で臨んだのが卜部との閨だったりする。上がいい、と譲らぬ藤堂は極めつけながらもそれを理由に断られたらどうしようという懸念が目に見えたので、卜部はじゃあ俺が下でいいスよと軽く返事をした。上流階級などではなくむしろ路地裏で育ったような卜部には同性相手に脚を開くことに抵抗がない。子供のころから背は高かったが成長期に入ってにょきにょき伸びた。天井知らずだなと揶揄されたものの横は増えない。背ばかり高くて腕力や体力は並程度であったからあっという間に暴力の標的になった。上から見下す輩を地面に這わせて見上げさせるのが当時路地裏で流行った不健康な遊びだった。
「卜部、咥え箸は止しなさい」
母親が諭すべき事柄を藤堂が諭す。藤堂は卜部の上官であるという自覚をある意味公私混同で考えている。つまり卜部を守るべき位置に自分がいると考えているのだ。それでいて卜部を戦力として考えて戦闘を展開させたりもする。
「はぁ、すんません」
ペッと吐き出した箸先には噛み痕がついている。自堕落の痕跡か片鱗のようなそれを藤堂は少し眉をひそめた。
藤堂が交渉されるのを嫌う時は真っ向から鎧戸を下ろしてしまったかのように鉄壁の守りに入る。卜部は何もしない。本当に、何もしないのだ。肯定も否定もしない。あぁ、そう。それで終わりである。その後はいくら話題を振っても暖簾に腕押しの状態が保たれる。藤堂がその話はしたくない、と小声で願えば卜部は話こそ聞くが返事をしない。能弁な性質ではない上に話したくないことに対する対処さえも対照的な二人だから上手くいっているのかもしれないと卜部は茫洋と思った。朝比奈などは口うるさいくらいに好く喋る。ひとつ訊けば十の答えが返る。余計な情報まで押しつけてくるのだからある意味で厄介だ。
ぱらぱら、と鼓を打つような涓滴に卜部が顔を上げた。すぐさまざあざあと水瓶をひっくり返したような夕立に変わる。卜部の足は意識する前に畳を蹴っていた。そのまま箸も器も放り出して庭へ飛び出す。止めようと伸ばされた藤堂の手をかいくぐって庭先へ躍り出た。強い日差しはそのままだ。お天気雨にしては濡れる降りだな、と卜部は思った。藤堂が濡れ縁まで追って出たものの庭へ出るか迷っている。卜部は纏う飛白に染みる涓滴を感じながら夕立に打たれて微笑んだ。濡れた髪が額を隠すのを思い切りかきあげると新たな雫が散った。着物はあっという間に濡れそぼって痩躯の卜部の体の在り様を妖艶に浮かび上がらせる。骨格の歪みや不均一についた筋肉。数えられそうな頸骨には雫が含まれ、踊るように動く爪先からは飛沫が飛んだ。
「あァ、なンだ。もう終わりかァ」
気付けば雨は小ぶりになってもう傘さえいらぬほどだ。ただ濡れそぼって色香を醸す卜部が夕立の名残として立っていた。ぐっしょり濡れて着物は湾曲した脊椎やくれた腹部、尖った腰骨をあらわにする。ぽとぽと神の先から垂れる雫が新たな雨のように卜部の首筋や肩を濡らす。下から窺い見るような狡猾な笑みはそれでもどこか妖艶だ。
「…鏡志朗。欲情した?」
ばっと踊るように袂を振って衿を開く。沁み込んだ雨で卜部の皮膚は肌理細かい輝きに照った。強すぎる夏の日差しが余計に卜部の真っ当さを失わせていく。藤堂は知らずにごくりと喉を鳴らした。
痛いほどの日差しの中で卜部の体だけがしっとりと濡れていた。藤堂が手を差し出す。卜部はその手をすり抜けて藤堂の手首を掴んだ。手首の突起を親指で強く圧す。
「螺子みたいだよな、ここって」
藤堂がどう対処すべきが動けないでいるうちに卜部が唇へ吸いついた。口腔を蹂躙してから卜部がけらけら笑う。藤堂の体はどこまでも正直だ。
あァ、だから好きなのかも
あァ、だから嫌いなのかも
「鏡志朗、あんた、俺を抱く気はないかい。濡れちまった体が気持ち悪くて全部、脱ぎたいんだよ」
耳朶でささやけば藤堂がぼッと燃えるような音を立てるように赤面する。耳や首筋まで真っ赤になる藤堂に卜部はケタケタと笑った。卜部が豹のように身軽く土を蹴って藤堂に飛びかかった。不意打ちだった所為か藤堂は受け身を取るのが精一杯で茫然と卜部を見ている。濡れそぼったまま藤堂の上に跨った卜部が艶っぽく衿を乱してみせた。
「シようって言ってンだ。だめなら引き下がるさ。どっちだ? 否か応しか答えはねェんだからはっきりしろよ」
藤堂がふっと吹きだすように笑ってから卜部の衿をくつろげた。そのまま開いて肩や二の腕をあらわにさせる。濡れた着物は軽い拘束服へと変化する。
「お前はいつもそうだ。自分で決めるふりをして私に判断を投げる。四聖剣の集まりでもそうだと聞いている。意見が割れたときに多数決にしようと言いだすのはお前だがお前の意見は聞いたことがないともな」
「多数決に任せんなァ俺が極めたくないからに決まってるでしょう。俺は長いものに巻かれる主義なんで」
「その割に、私との付き合いは真っ当とは言えんな」
後は、その食生活もな。蝉や蜻蛉はよしなさい。藤堂が幼子へ言い聞かせるように甘く言った。
「判っててもするでしょう」
どちらからともなく唇を重ねた。腕や腰に濡れた着物をまとわりつかせたまま卜部は藤堂に抱かれた。絡みあう二人の下で畳がじっとりと湿り気を帯びた。藤堂の着物は濡れていなかったが濡れた卜部の着物に触れるうちに水気を帯びる。二人の間を行き交う熱のように水分が互いの着物へ浸透する。事が済む頃には二人して湿り気のある身なりをしていて思わず大笑いした。
「風呂、もらいましたよ。どーぞ」
新しい飛白を着た湯上りの卜部にキスをしてから藤堂が浴場へ行く。
「腹が減っても蝉は食うなよ」
「引っ張るな、そのネタ!」
がんと殴られたように反応する卜部に藤堂が滅多にみせない悪戯っぽい笑みを浮かべて身軽く風呂場へ逃げる。夕立ちで絶えていた蝉の鳴き声がまた、しげく聞こえ始めていた。夕立の後の日差しは湿度も気温も高く卜部としてはごめんこうむりたい。濡れ縁へ足を投げ出すようにして寝そべった。頬擦りする板張りは風雨にさらされて黒茶けたり白茶けたりしていたが好く磨かれていてささくれもない。風呂上がりで水気をたっぷり含んだ頬がしっとり馴染む。目に映る景色の角度が変わる。雨粒が強い日差しに負けてきらきらと落ちていく。雨はやがて上がるだろう。夏の夕立ほど気まぐれなものはない。
「…美味いんだけどなぁ…」
じわりじわりと脳内で音がする。その微音と羽虫の振動のような音が蝉の鳴き声であると気づくのはしばらく後だった。また蝉が鳴きはじめた。雨上がりは近い。卜部は人目もはばからず声を立てて笑った。藤堂の私邸は庭がある上に田舎だ。多少の物音が奇矯な叫び声くらいなら黙殺される。濡れ縁へ溶けるように寝そべったまま、卜部は笑い続けた。
切ろうと思えば切れる関係。だからこそ切れない関係。逃れられない、それは、藤堂はおろか卜部自身さえも。終わりに嗤い始まりに笑い、卜部は体をよじって長い四肢を折りたたむようにして蝉の鳴き声に耳を済ませた。火で炙って食ったら美味いのになァ。誰にも理解されない。けれど物事すべてそれでよいと卜部は思っている。どうせみんな、自分しか見ていないんだから。路地裏暮らしとしての結論だ。清廉潔白、凛とした藤堂でさえ他者の視点に合わせることなど不可能なのだ。だからみんな何も知らない。それでいいじゃないかよ。卜部は膝を抱えて丸まるとクックッと喉を震わせて笑った。猫のようにぐるぐると唸る喉の振動が全てだった。
《了》